「昆布の歴史」昆布の豆知識

昆布年表

昆布は長い歴史を誇る食材です。古文書にも度々登場する昆布。蝦夷地、現在の北海道を主産地とする昆布が日本の歴史に登場し広く流通する歴史を各時代で名付けられた昆布の種類から年表にしてみました。

細目昆布時代
紀元前
820年頃
周公(爾雅の著者、綸布の記述)
綸布:昆布と思われる名称の最も古い記述。
536 陶弘景没(名医別録の著者、昆布の記述有り)
621 唐 開元通宝
630 遣唐使始まる。
710 奈良時代
712 古事記編纂。
715 古麻比留、昆布貢献
朝廷に始めて昆布が貢ぎ物として献上された。
727 渤海使来る
渤海から唐に昆布が運ばれたという説もあります。
794 平安時代
797 続日本紀(古麻比留の記述)
最も古い「昆布」の記述が登場。
902 延喜式(陸奥国よりヒロメ貢納)
当時の諸国の特産が記述されています。昆布も登場。
918 本草和名(昆布、綸布)
930 倭名類聚抄(比呂米、海帯)
中国では現在も昆布は海帯と呼ばれています。
1057 嘉祐本草(昆布、海帯)
宇賀昆布時代
1192 鎌倉時代
1350 玄恵没(能狂言「昆布売り」)
若狭の昆布売りが烏帽子を昆布に見立てて登場。
1333 南北朝時代
1392 室町時代
南北朝合体、松前屋蝦夷と交易
いよいよ蝦夷地との交易開始。昆布が大量に本州に入り始めます。
1400頃 小説吉野葛で昆布一族が南朝の自天王を奉ず
1481 一条兼良没(精進魚類物語)
1590 李時珍 本草編目(昆布、若布)
昆布が物語に登場しました。
1603 江戸時代
1607 李時珍来日
元揃・三石昆布時代
1630頃 コンブの西廻り航路始まる
北前船により大量の昆布が関西へ。

琉球から中国への道が拓けます。
長昆布時代
1915 中国漢字辞典「辞源」昆布はコンブ
1937 「辞海」「国語辞典」
1941頃 昆布の経済統制
1942 牧野富太郎論文「コンブは海帯であって昆布ではない」
促成昆布時代
1969 中国・日本で促成昆布栽培
1972 中国より昆布輸入

昆布の時代別区分

■細目昆布時代

八世紀以前、函館より西に住む和人。ここでは細目昆布のみ採れる。10t未満と推定。
昆布食は北海道・東北日本海側・新潟。
用途:ダシ

■宇賀昆布時代

1220年頃、北海道が本州の行政区域に編入。函館の東の昆布、真昆布(宇賀昆布)も採られ始める。葉と品質の特徴から宇賀型と呼ばれる。山陰まで。
産額100t台と推定。
用途:ダシ・けずって食べる。とろろ・おぼろ

■元揃昆布時代

1639年頃から始まる。この年、加賀藩が下関を通って米を大坂(大阪)まで運んだ。この折、昆布も一緒に運んだと思われる。元揃型真昆布、日高の三石採取。産額は1,000t台。
用途:佃煮 元揃型真昆布・三石昆布→大坂で加工→最高級

■長昆布時代

長昆布を煮て食べる西海型。1799年に始まったと考えられる。この年、高田屋嘉兵衛がエトロフ航路を開拓。長昆布が大量に出回る。
用途:煮て、葉だけを食べる。長昆布→味が淡泊。

昆布地図

北海道型

昆布の種類によっても異なりますが、昆布はダシのみに使うのが主流。ダシを取った後の昆布は多くの家庭がそのまま捨ててしまいます。

三陸(東北)型

おもに、地元で採れた薄い昆布の葉のみを食べる。ちなみに同じ青森県でも、南部では「すき昆布」を食べるが、津軽ではまったくその習慣がありません。

東京型

大阪と同じく、ダシ、とろろ、おぼろ、そして佃煮が一般的。いつもライバル視される東京と大阪ですが、なぜか昆布の食べ方は似ています。

北陸型

昆布ダシの他、とろろ昆布、おぼろ昆布が多く食されるのが特徴。富山県から山陰の島根県までがこの型にあてはまります。

大阪型

昆布ダシ、とろろ、おぼろの他に佃煮が多く食べられているのが特徴。ちなみに佃煮の原料に最適なのは高級品の「元揃昆布」です。

西海(九州)型

昆布ダシを使わず、煮た後にダシを捨てて、葉だけを食べるのがこの地域の特徴です。

沖縄型

低たんぱくの豚肉と昆布を組合わせた料理は沖縄独特のもの。長寿日本一なのも、昆布のおかげかもしれません。

「昆布」名前の由来

昆布という名前は何時・誰が名付けたのかは不明です。中国では昆布は他の海藻を指し、日本の昆布は海帯と名付けられています。昆布というものも存在する為、歴史学者が中国の古い書物に昆布の名前を見つけて間違えた学説を披露することもしばしばあります。

ここでは、昆布と言う名前の由来を考えてみましょう。
由来には3つの考え方があるようです。

(1)広布(ひろめ)→音読→コウフ→コンブ
(2)アイヌ語コンボ→中国→逆輸入の外来語コンブ
(3)中国の周の時代、周公「爾雅 ジガ」綸草、組草→綸布(カンプ)

536年陶弘景「名医別録」→ 中国語起源説
797年「続日本紀」昆布が登場
918年「本草和名」…。

周の時代の綸布(カンプ)が昆布の語源という説もありますが、真相は?

中国の書物には以後、昆布と海帯が度々登場します。ただし、本草(中国古来の学問で、薬用に重点をおいた植物や自然物の研究)に絵入りで登場する昆布は、日本の昆布と似て非なるもの。ほとんどが若布(ワカメ)と思われるものばかり。「唐書渤海伝」に(俗ニ貴ブ所ハ東海ノ海帯~)という一節があり高貴な薬材(不老長寿の仙薬)として紹介されています。
1596年中国の明の時代、李時珍が著した「本草綱目」で初めて昆布と海帯の区分けが試みられましたが、掲載された絵を見るとどちらも昆布とは言い難いものでした。
1846年に発表された清の時代の「植物名実図考」の海帯が真昆布状のものを掲載しました。

博学の国 中国でのこうした混乱は、その当時の中国では昆布が収穫されず、琉球や長崎から輸入される、乾燥されたり加工された昆布しか目にすることができなかったからです。
この時代、日本から輸入される板昆布を海帯、刻昆布を帯絲と呼んでいたところから、この「昆布」も実体は謎。今や世界一の昆布(全部養殖物)生産国である中国では考えられないことですが。

一方日本では、平安時代前期に編纂された『倭名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)』に、昆布として「比呂女(ひろめ)」(広布)、「衣比須女(えびすめ)」(夷布)といった文字が使われています。

昆布という名は、アイヌがコンプと呼び、中国に入ったものが日本に再び入ってきたものだという説が有力な様ですが、今だに謎は深まるばかり。

貴族社会と昆布

貴族の藻食料理について「延喜式」に材料まで詳しく記した食品は4種あり、昆布は「海藻」の項に登場します。
『延喜式』(エンギシキ)は、醍醐天皇の命で律令政治の最後の整備として、藤原時平、忠平らが編集した法典。延長5年(927)完成。この法典編集の主目的は、弘仁式・貞観式以後の式を取捨し、集大成化することにありました。

『延喜式』(エンギシキ)とは、延喜5年(905)、藤原時平ほか11名の委員によって「養老律令」の施行細則を編纂・集大成した、全50巻からなる平安中期の法典のこと。

「延喜式」では海藻類を租税に指定しました。貢納国と品名の地方別の記載の中に陸奥(青森県)ヒロメ(昆布)が見られます。朝廷は昆布を文武百官や神社仏寺に支給します。祭り、法会では特配もおこないます。奈良時代に比較し昆布は法会での使用頻度が急増します。神社では神餞とし、神官らの給与として配給したようです。平安時代、天子の即位時、大嘗会・祭等、宮廷行事に昆布も供献されました。

めでたい儀式・饗宴の「絵」として献ぜる。

中国から伝わる。清「嘗用」と呼び、めで楽しんだ。

仏教文化と昆布

唐書に「俗ニ貴ズ所ハ東海ノ海帯(昆布)」とあり、遣唐使などの留学僧が昆布の薬効、ダシの効用を知ったと考えられています。鎌倉時代に仏教信仰は武家・庶民に浸透します。宮廷が鰹節でダシをとるのに対して精進料理では昆布でダシをとりました。精進料理が武家・庶民に浸透すると共に昆布も徐々にひろがりはじめます。また留学僧は彼の地で喫茶の習慣も身に付けます。お茶を嗜むと同時に「点心」のおかず「茶の子」を知ります。「茶の子」として昆布は親しまれてゆきます。留学僧がもたらした喫茶は茶道となり、茶席の菓子が発達します。昆布は海藻中でいちばん菓子にふさわしい食材でした。

宮廷では進物として熨鮑を重用しました。これが後世一般に広がり祝い等の進物に色紙を折った細長い六角形の紙型に薄く切った熨斗アワビを入れたものをそえるようになります。これをを熨斗と呼ぶようになります。これに対して寺院では進物に昆布を利用し熨斗の代わりに昆布と書くようになります。

(熨斗を付けてお返しする→喜んでお返しをする)

この喜んでの語呂が昆布に通じていると言う説もあります。

武士の風習と昆布

戦国時代、武家の時代に入ると昆布は陣中食として利用されます。「武則要秘録」には昆布を細かく切り刻み、醤油で煮込み、竹筒などに詰めて携帯食として持参せよと記載されています。戦が最悪の状態になると籠城のため城内に食料を貯蔵します。ここでも昆布は主役となります。「武教全書」には海藻では昆布、アラメ、ヒジキが良いと説いています。松永弾正は城中に三年分の昆布を貯えていたといいます。加藤清正の居城熊本城では壁の内部に昆布やアラメが隙間なく詰め込まれていました。

鎌倉期から戦国時代へかけて、戦争は年をおって激しくなっていきました。そうした中で華々しい出陣と輝かしい凱旋を祝う儀式が、しだいに定型化してゆきます。そしてその儀式の中では、昆布が決まって使われました。出陣は、戦陣にのぞむに先立ち、勝利を祈願しおごそかな儀式を執り行いました。三宝には打ち鮑五本、勝栗七箇、昆布五切れの順に並べます。鮑五本には「御本意」をとげるという心意気があらわれています。まずアワビを広い方から食べ、土器(かわらけ)に酒を三度つがせて飲み、次に勝栗を一つ食べて三度四度盃をあげ、最後に昆布の両端を切りのけ、中を食べてさらに三度酒を飲みます。敵に「打ち勝ち喜ぶ」という意味がこめられているわけです。戦に勝利し帰陣したときは、初献にかち栗を食べて酒を飲み、二献目にはアワビを、三献目に昆布を食べては酒を飲む。順序が入れ替わったのは、敵に「勝ち、打ちて喜ぶ」、戦勝を祝う意味からです。『軍用記』これらの食品は、単に語呂合わせのために選ばれたものではありません。古代からわれわれの祖先が大切にしてきたわが国固有の食料で、生死の関頭に立ったときの心の支えとしたわけです。こうした儀式が、やがて民間に伝承され、のしあわび・昆布は、結婚、元服その他の慶事にはなくてはならぬものとなりました。また正月には勝ち栗を歯固めに、昆布の類を鏡餅の上に飾るようになるのです。

商人と昆布

江戸中期、敦賀は昆布ロードの唯一の中継地となりました。宝歴年間(1760年頃)細工昆布の創始者高木善兵衛が現れ加工業者が増え、文成7年(1824)「細工昆布仲間」の結成を小浜候から許可されました。この時、候から将軍家献上昆布の調整を命じられました。12代将軍家慶の弘化2年正月、昆布を献上。以後、江戸に支店を設け、将軍家御用と江戸市中向け販路の拡張につとめます。大坂の堺は多くの鍛冶屋があり、昆布の手加工に欠かせぬ包丁も堺で育てられました。鎌倉中期~室町期に蝦夷地に和人が多く進出し、昆布商人も増え、百姓・商人層まで昆布食の習慣が広まりました。

江戸時代、享保の頃より内地商人の中から信用のおける者を選び、蝦夷地の漁場を請け負わせ「運上屋」を設けここを交易場所として昆布などを買い入れました。さらに海運業の発達と近江商人や昆布商人の活躍から昆布食は庶民に広まり、手加工・商売が開花します。
大坂では、海藻商人の株仲間「昆布商仲間」が生まれ、「青昆布仲間」「細工昆布仲間」が組織されました。問屋の差配役昆布屋伊兵衛は、西廻航路開設のころから松前問屋を開いていました。「昆布屋」の商号を名乗ったことにも明らかなように、大坂コンブ商の草分けです。三代目伊兵衛のころには、早くも大坂屈指の豪商の仲間入りをしています。彼は商人として一流なだけでなく、書をよくし、歌道にも秀で、流麗な筆で数百の詠草を今日に伝えています。号を「求林」と称する麻田流の算学者として、日本の数学史に輝かしい足跡を残しました。

昆布と明治維新

密田家は、江戸時代より能登屋と号し、富山を代表する売薬商家でした。この密田家を中心とした富山の売薬が、財政破綻をきたした薩摩藩に昆布を贈り藩内の売薬の権利と中国の生薬薬材を得たと言います。薩摩藩は、琉球経由で昆布を中国、当時の清に送ります。つまり、密貿易の拠点を琉球に置き藩財政を立て直したというわけです。昆布は対清貿易の中心でした。周益湘「道光(1821)以後中琉貿易的統計」によると朝貢船の積み荷の86%が昆布で、多いときには94%もあったそうです。これは当時の交易に必要であった銀の海外流出を押さえる為、中国が必要とした昆布など海産物を質の低下をきたした貿易銀の代わりに使用した(俵物)ためです。その中心であった薩摩藩は赤字処理をし、倒幕に向けた準備に入っていきます。昆布が明治維新に関係したというお話です。

沖縄・中国と昆布

昆布は琉球であった沖縄に1800年前後に大量に運ばれました。1788年頃、薩摩の黒糖を大坂で昆布に換え、昆布を琉球で唐物に換え、唐物を長崎・北陸で金に換える商法が始まっていました。琉球から大量の昆布が現在の中国福健省に輸出されました。

当時の琉球那覇には昆布座という薩摩藩の昆布取引所が設けられ、同様の施設の油座・砂糖座よりも広大な面積を占めていました。この昆布座は「在番奉行所」と共に薩摩藩の琉球支配の心臓部であったといいます。昆布のとれない沖縄には現在も昆布を煮て食べる風習があります。これは中国大陸における食べ方で、現在の台湾でも同じ食べ方が残っています。

昆布と文化

昆布を宮中で慶事に用いたのは、おそらくかなり古いもので、武士はそれを真似たのではないかとみられます。『年中定例記』によれば「殿中正月ヨリ十二月まで、御対面御祝ハ以下ノコト」として「焼栗九、昆布九きれ(一寸四方)」と記してあります。

こうした習慣が、やがて公卿より武家へ、民間へと弘まり、その用い方も定式化されてゆくことになります。
結婚披露を「お披露目」というのは、昆布の古名「ヒロメ」に通じるものでしょう。

昆布食の歴史

室町時代、若狭昆布の主要な仕向先となった京都では、これを菓子として用いることが多くなりました。儀式のさいに風流な上菓子として使われたようです。京都の「松前屋」は、宮中での大嘗会、歴代天皇の即位、その他あらゆる儀式にさいし、菊花、紅葉、観世水、百合を組合わせた「有職昆布」を京菓子の一種として献上しています。明和二年(一七六五)後桜町天皇にこれらの「菓子昆布」を献納して、天皇より「養老御所の花」「雪の上」「柴の戸」等の命名をうけています。菓子昆布は、おぼろやとろろ昆布を製造したあとの芯を使います。これをよく煮熟してのち砂糖液で煮つめ、さらに表面を砂糖でおおい、色々な花模様に意匠をこらしたものです。現今「求肥昆布」といわれるもので、軟らかくなるまで充分に砂糖液で煮ると、昆布の持ち味が砂糖の甘さにくるまれた菓子となります。今でも敦賀市では町の誇る特産です。室町期以来の菓子昆布としては「水辛」があります。天明元年版『見た京物語』は、江戸っ子の眼に映じた京の食べ物事情を適切に紹介していますが、その中で、「昆布をみずからと呼び」「芝居にてもまんじゅうや水辛を売る」と紹介しています。

明治27~28年頃心斎橋の料亭「矢倉」の職人が順慶橋の井戸ヶ辻辺「酢常」という暖簾を構えます。コノシロを二枚におろし、スシネタにして評判をとります。ピンと張ったシッポを見て客がバッテラ(bateira ポルトガル語でボート『小舟』の意)と渾名をつけたのが始まり。コノシロの値上がりからネタを鯖にしますが、その生臭さを消すため昆布を上に乗せます。やがて白板昆布を使い体裁を整えます。昆布がうま味と乾燥防止の役目を果たして、大阪を代表する「松前寿司」となりました。

「1.昆布の知識」へ

「3.世界の昆布」へ